保守・愛国向け戦争体験談】そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ【連載2】

保守・愛国向け戦争体験談】そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ【連載2】

この記事は約8分47秒で読めます。

 
  • 保守寄りの考え方が多いニュース速報(旧速)に「そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ」なるスレがたった。
  • ボリュームが多いスレなので、分割しシリーズ化します。当記事は第2弾となります。(2016年版は全4記事)

 

 

2ちゃんの感想・反応

あまり語らない人ってのも多いよね。こういう話は大事に聞いておきたい…。

2ちゃんねるの反応・意見

おれのばあちゃんは徴用でなく志願で広島の被服工場で軍服縫ってたらしい
ばあちゃんは兵隊に気を使うのが嫌で嫌で仕方なくて母親が大病だと嘘ついて田舎に帰ったんだって、志願だったから大目に見てくれたらしい
田舎に帰った2日後に原爆が落ちた

うちの曾祖父さんは大陸から帰ってくる時乗ってる船がアメリカの潜水艦に撃沈された
ボートで脱出した後漂着したのが沖縄でそのまま沖縄戦に参加

仕事で知り合ったおばあさんから聞いた話。

「子供の頃に空襲があった。
初めは遠くの方で火が上がり、親たちはその火を消す為に出ていった。
そのうちものすごい数のB29が飛来しあたり一面火の海になった。
先天的に足に障害があり歩けない妹を抱え、火の中をただただ逃げた。

身体にヤケドを負ったが、姉妹とも生き延びる事が出来た。
ただ、両親は帰ってこなかった。家も焼けて失った。
行くあてなどなく、家の焼け跡に戻り妹の世話をしながら生きた。
足の悪い妹の面倒を見るのはもう自分しか居ないんだと覚悟を決め、
口では言えない様々な事をして生きてきた。

焼け野原に空襲前に近所だった人達がぽつりぽつりと戻ってきて、
ご近所さん同士で助け合っての生活が始まった。
しかし、一番仲良くしていた人が住んでいた立地の良い土地には朝鮮の人が
勝手に住み着いていて、一番仲良くしていた人が戻ってきた時に揉め事になったが
一番仲良くしていた人はすぐに居なくなった。殺されたんだと思う。
その朝鮮の人から様々な暴力を受けたが、妹を守るために我慢して
一度も逆らわなかった。

妹の世話をするため結婚をせず、今まで姉妹2人だけで生きて来た。
もうすぐお迎えが来るが、妹を守り切ったと両親に報告出来るよう
この命が尽きるまでやり通します。」

2ちゃんねるの反応・意見

大伯父がボルネオと南支那だったか
戦没戦士
東京からど田舎に疎開した祖母は畑仕事の帰りに機銃掃射に出くわしたがとっさに伏せて無事だった
疎開前か後か解らないけど戦時中食べ物に困ったことは無かったと言ってた

じいちゃんは陸軍中尉で現地の人とも仲良くしてたらしい
現地で生き延びて帰国中に餓死しかけたとか

叔父さんが駆逐艦の高角砲手
俯角が取れないタイミングで雷撃機見たときは死ぬかと思ったらしい

終戦時には同型鑑は全て沈没
乗ってた鑑が唯一残ったと

もう死んだ知人というか客になるけど
元海軍の水兵で艦が撃沈された。
なんとか助かったが右腕の骨が一本失った。
見た目でわかる、確かに腕の骨が一本ない。
結構な年なのに頭もしっかり体もしっかりしてて、動きもキビキビしてて旧軍の生き残りだからかな。
とか思ってたらボケ始めた時はショックだったわ。
そのうち昔の事聞けたらなとか思ってたから。
あまり酷くならんうちに死んだけど。

祖母が戦前生まれなんだけどド田舎の農家だったから
戦中戦後も戦前とあまり生活変わらなくて
悲惨な戦争体験とか聞いてもピンとこないって言ってたわ

小さい頃、よく母親から「戦争中はこうだったのよ(それに比べれば今がどんなに恵まれているか)」
という話を聞かされたもんだが、その母親も思いっきり戦後生まれだったことに
だいぶ経ってから気づいた

終戦跨いでる人の話と後の話は結構どころかかなり違う気がする

うちのばあちゃんは父親長崎で被爆して帰った後後遺症、艦砲射撃で母親と兄弟4人死亡、特に妹は連れて逃げようと手を引っ張った瞬間爆片に貫かれて目の前で死亡
死体の転がってる中を裸足で逃げ回った
小学校も数年間通っただけ
現在はピンピンしとる

うちの婆さん、被爆者だけど90過ぎてもピンピンしてるわ
適度な放射能は活性酸素を取り除くから、むしろ健康にいいとかなんとか

その他、感想

うちの爺ちゃんは中国で砲兵隊の伍長だったらしい。
しかし、馬で指揮してる最中穴に落ちて負傷して野戦病院で婆さんと知り合って傷病兵帰国して結婚。
運が良かったのかなw
それなりに長生きしたし優しい良い爺ちゃん婆ちゃんだった。

うちの母方の祖父
詳しく教えてくれなかったけど関東軍の砲兵部隊っぽい
支那事変の頃に大陸に居たらしい
関門海峡を抜ける時はもう日本を見納めかと思ったそうな
幸か不幸か早期に銃弾が脚を貫通して負傷したため帰国
戦況が悪化してからは大陸の部隊も南方に回されて悲惨だったとか
中隊長の馬を拝借し騎乗して撮影した写真が残ってる
もっと話聞いておけばよかった

満州行ってたみたいだけど戦争の話はしたがらんかったな 面白話みたいなのはしてくれたけど
部隊仲間の頭とヘルメットの隙間に流れ弾が入って一周して弾が出てった話は良く聞いたわ 頭周りに線がついただけで助かったみたいな

父方の祖父 海軍 日中戦争に参戦 敵の手榴弾で負傷
母方の祖父 陸軍 ビルマに派兵されるも、痔の悪化でやむなく帰国

父方も母方も直接話を聞く事はできず、父や母から又聞きだわ
父方のほうは戦時中のアルバムなどを、祖父がなくなった後に父に貰ったので
写真や書類を見れば大体は分かった

大牟田から長崎原爆のキノコ雲が見えたって話も又聞きしたな。
そんなわけあるかと思って詳しく調べてみたら、大牟田と長崎って直線距離で100kmも離れてない。
そりゃ見えてもおかしくは無いわな。

おばあちゃん、近くに爆弾落ちてびっくりして生理が一年止まったらしい。
父は満州生まれ。敗戦前に日本に帰ったので残留孤児にならずにすんだ。

大陸でロシアの捕虜になった話を聞いたけど
2chでも洒落にならないから書けない。

親父と叔父は、先祖伝来の鎧甲や刀や火縄銃やらを持っていると進駐軍に殺されると思って川に捨てたそうだ。
爺さんが死ぬまでその事を怒っていた。

その他、2ch反応

祖母

満州帰り。帰国時に栄養失調で長男(俺の叔父ね)をなくしてる。
帰国してから日本の町中を歩く韓国人が相当派手な服装で威張ってたらしい。
人のこと悪く言うことない人だったけど、在日にだけはいいこと言わなかった。

祖父ふたり、ホントに朝鮮が嫌いだったな
あと戦争の話しはしなかった。

戦時中の食料不足の時に作物泥棒みたいなのは無かったのか聞いた事あるけど、田んぼの畦に生えてる芹なんかは、みんな摘まれてたけど、作物泥棒とかは無かったって言ってたな。

じいちゃんから聞いた
南京では普通の戦闘はあったけど
虐殺なんてなかった
何故そういう話しになったのか分からないって

カセットに自分の声で残しておこう
あとデジタル化もしておこう

榴弾砲は結果が見えないからつまらないけど
加農砲は家でもトラックでもなんでも壊せるから面白いぞ・・
と言うのが砲兵だったじっちゃんの口癖だった。

戦後、闇市に食料調達のお使いに行った帰りの汽車で憲兵の取り締まりに遭って荷物を確認されて持っていたお米その他が見つかってしまったけど、当時、子供で女の子だったからか、憲兵さんは見て見ぬふりをして見逃してくれたって話が印象に残ってる。

当時は闇市も警察官に黙認されてたが、警察官本人は立場上利用できないって人が多くて、一般人より飢えてたって聞いた

▼ 闇米を拒否し餓死した裁判官は有名

山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年11月16日 – 1947年10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した事で知られる。

via: 山口良忠 – Wikipedia

婆ちゃんの話、B29が太田の飛行場(中島飛行機)爆撃した帰りに、護衛戦闘機に機銃掃射された
田んぼに飛び込んで水から首だけ出してると、
回りにピッチョピッチョピッチョと水しぶきが上がった

俺の婆ちゃんは長崎で被爆したが当時看護婦だったから遺体を運ぶ係だったが地獄絵図だったらしいw

中国行ってピータン食って帰ってきた話しか聞いたことない

爺さんに聞いた話
満州に駐留していた頃
昼間は普通に挨拶するような民間人が夜にはゲリラになって襲って来たりするんだって。

満州に行って帰ってきた口だけどあまり詳しいこと話さなかったな。
酒飲むと軍歌?を歌うぐらい。

お前らのおじいさんの士官率は異常すぎるw

※この記事は、2ちゃんニュース速報(旧速・保守多め)のスレ「そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ」をまとめた記事です。

500レスあり、ボリュームがあるスレなので、4記事に分けて出していきます。

新記事を作ったら、リンク貼ります。

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